2006年12月20日

世界唯一の平和主義国家日本

鉄砲伝来は、1543年(天文12年)8月25日、ポルトガル人フランシスコ・ゼイモトが便乗する中国船が、九州南方の種子島にやってきました。
彼の持っていた鉄砲に着目した種子島時堯は、金2,000両を投じてこれを譲り受け、使用法を教わり、種子島在住の鍛冶・八板金兵衛清定に命じて早速その複製を作らせたことで、これより鉄砲の製作は、瞬く間に全国にひろがり、やがて滋賀の国友村や、堺などで大量生産されるようになりました。

当時の日本は、各地に群雄が割拠する戦国時代でした。
いち早く鉄砲の戦略価値に目をつけた織田信長は、1575年(天正3年)5月 21日長篠の戦いに数百挺の鉄砲対を編成、武田勝頼の騎馬隊と対峙して圧倒的な勝利を得ます。
この勝利によって織田信長の天下統一は、もはや疑う余地のないものになりました。

一挺の鉄砲が種子島に伝来してから約30年、驚くべき速度で普及したのは、日本の鈑金技術が極めて優れていたことを示すものですが、この驚愕の新兵器が長篠の戦いを最後に、戦国史の表舞台から、ほとんど姿を消してしまいます。
その意味が理解できず、長篠の戦いでの鉄砲の記述は、実際にあったことの記録ではなく、誇張されたものではないか?と疑う歴史学者が存在するほどです。

鉄砲だけではありません。
当時、信長は鋼鉄船を所有していましたが、この船は船体に鋼鉄の板を張り巡らし、甲板に砲台を設置した、現代の戦艦と同じ発想の元に建造されたもので、当時世界中を見ても、これほどの船が存在しないばかりか、発想自体あと何年も待たねばなりませんでした。
決意させた当時の世界最高峰の最新兵器鋼鉄船に、世界最高の鉄砲保有数を誇る日本を、その目で見、その盟主信長のやり口をつぶさに見届けたヴァリニャーノが、
「信長を生かしておいては、いずれ必ずスペインに侵攻して世界征服を企む筈だ」と踏んだのも無理からぬ事でした。

しかし、鉄砲どころか、この鋼鉄船さえも、日本史の表舞台から降りてしまいます。

なぜか!?

私自身、しばらく前までは、この理由が分からず、頭を捻っていました。



しかし、ノエル・ベリンという外国人が書いた「鉄砲を捨てた日本人」(中公新書)という本の存在を知って、やっと、その意味が飲み込めたと同時に、日本人の素晴らしさに気付かされました。

同書のサブタイトルには、「日本に学ぶ軍縮」とあり、カバーには、



16世紀後半の日本は、非西欧圏で唯一、鉄砲の大量生産に成功し、西欧のいかなる国にも勝る鉄砲使用国となった。にも拘わらず江戸時代を通じて日本人は鉄砲を捨てて刀剣の世界に舞い戻った。
武器の世界において起るべからざることが起ったのである。
同時代の西欧では鉄砲の使用、拡大によって戦争に明け暮れていたことを考えると、この日本の〈奇跡〉が示唆するところは大きい




目から鱗とは、正にこのことです。

我々、アメリカ製の日本史に学んだ世代は、刀から鉄砲、更に機関銃、大砲、ロケット、核爆弾と、武器は常に進化し続けるものだという先入観(と言っていいのか分かりません)があります。

なぜならば、この世は「弱肉強食」が、唯一の共通ルール。
一旦進化を始めた武器の開発を放棄する事など不可能だと思っていましたし、それが常識でした。


しかし、しかし!

かつて日本は、武器の進化を止めたことがある!
止めたどころか、それは放棄に限りなく近い形だったのです!!


種子島に鉄砲が伝えられ、それを信長がいち早く大量生産し、日本を統一しました。
しかし、その後、鉄砲は消え、再び刀の世界になった。
こんなことは世界に例がありません。


つまり、「軍縮」という現在世界中が、実現に頭を抱えているテーマが、400年以上もの過去、この日本で実際に実行されてきたという実績が存在するのです。



織田、豊臣、そして徳川という段階を経て、日本は世界に例のない「軍縮」を実現させました。
しかも、鉄砲は必要がなかったから衰退したわけではなく、意図的に衰退させたということを見逃してはいけませんね。
何故ならば、長く続いた戦国の世に慣れきった人々、その中でも天下に見捨てられた人々は、「もう一旗上げたい」徳川の世も三代様までは、常に虎視眈々と機会を狙っていました。
そういった状況の中での、「軍縮」実現だったのです。

もちろん鎖国していたから、「軍縮」が出来たのです。

もっとも、明治維新になって、西欧列強と肩を並べるために、軍拡を急ぎ、またその軍拡に成功した初の東洋人として目を付けられた日本は、日清、日露の戦争をやり、大東亜戦争を体験する事になりました。
しかし、一刻も早く西欧列強と肩を並べなければ、他のアジア諸国のように植民地にされる事を、良く分かっていた先人たちは、否が応にも、「西欧列強の論理」に呑み込まれざるを得なかったのです。


これは、日本が望んだことではありません。
歴史が望んだことだと、私は解釈しています。


それを、昭和初期、つまり大東亜戦争を生きた年代の日本人はよく分かっていました。

私は、司馬遼太郎氏の作品が大好きで、かなり影響を受けていますが、ひとつだけ相容れない考えがあります。それが、昭和の日本人に対する評価です。
司馬氏は、「明治はよかったが、昭和になって途端にダメになった」とよく述べています。
ここです。


もう一度言いますが、これは、日本が望んだことではありません。
歴史が望んだことだと、私は解釈しています。




最後に、私の大好きな大日本帝国陸軍中将 石原莞爾のエピソードを紹介して、結びに替えようと思います。


Ishiwara.jpg

石原莞爾は、敗戦後の東京裁判に参考人として出廷を命じられましたが、持病の悪化で入院していたため、
「動けないからお前らが来い」
と言い、アメリカ人の検事に病院に出張させ、尋問を受けました。
その際、日本の戦争責任を日清・日露戦争にまで遡って追及してきた相手に対して石原氏は、

我々は徳川幕府の昔から鎖国主義で満州も台湾も不要であったのに貴国からペルリ(原文ママ。黒船に乗って来航し、徳川幕府に開国を迫ったペリーのこと)が、黒船に乗ってやって来て大砲で脅かして門戸開放を迫り日本を世界の荒波の中に押し出し、自ら侵略のお手本を示した‥‥元凶はペルリだ。
ペルリをあの世から呼んできて戦犯としてはどうか


と、ビシっと切り捨てました。



更に「戦争犯罪人の中で、一体誰が第一級と思うか?」
と尋ねられた時には、
国際法上非戦闘員を爆撃することは許されないのに、当時のアメリカ大統領トルーマンは広島・長崎の原爆も含めて、一般市民に対して行われた無差別爆撃による大量虐殺を行ったことを理由に挙げ、
「トルーマンだ」と答えました。

更に更に、満州国の立役者は自分であるから、東条などよりも、自分を第一級戦犯とすべし!と決め付けました。



痛快



戦犯は、ただ敗戦国にしか存在させようがないことを、石原氏は良く分かっていたんですねぇ。



posted by 大塚陽一 at 10:36 | Comment(0) | 独り言
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
RDF Site Summary
RSS 2.0
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。