
あなたは聖書の「創世記」をご存知ですか?
そしてそこで語られる「失楽園」。
この「失楽園」に関するエピソードは、多くの方がご存知でしょう。
あのエロ小説やエロドラマの「失楽園
アダムやエヴァが楽園を追われる話しです。
この話しには多くの示唆が含まれており、多くの気付きを与えてくれますので、今日はちょ、と長くなりますが、原文を抜粋しますので、まずは読んでみて下さい。

創世記3章
(略)
3:6
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。
女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
3:7
二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
3:8
その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。
アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
3:9
主なる神はアダムを呼ばれた。
「どこにいるのか。」
3:10
彼は答えた。
「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
3:11
神は言われた。
「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
3:12
アダムは答えた。
「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
3:13
主なる神は女に向かって言われた。
「何ということをしたのか。」
女は答えた。
「蛇がだましたので、食べてしまいました」
3:16
神は女に向かって言われた。
「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。
お前は、苦しんで子を産む。
お前は男を求め/彼はお前を支配する。」
3:17
神はアダムに向かって言われた。
「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。
お前のゆえに、土は呪われるものとなった。
お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
3:18
お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。
3:19
お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。
お前がそこから取られた土に。
塵にすぎないお前は塵に返る。」
3:22
主なる神は言われた。
「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。
今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」
3:23
主なる神は彼をエデンの園から追い出し、彼に自分がそこから取られた土を耕させることにされた。
3:24
こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。
エデンの園には、「命の木」と「善悪の知識の木」がありました。
アダムとエヴァは、「命の木」の実を食す事を許されていて永遠の命を持っていましたが、「善悪の知識の木」を食す事は許されていませんでした。
しかしアダムとエヴァは禁断の木「善悪の知識の木」の実を食べて、エデンの園から追放、「命の木」の実を食す権利を失くし、死ぬべき運命となりました。
知識の実を得るために、神の国にある永遠の命の実を失ったのです。
で、注目して欲しいのは、一般的に言われる「知恵の実」ではなく、「善悪を判断する知識の実」であるというところです。
(リンゴでもないですよ!念のため!)
サタンは、善悪の知識を持たない人間に同情し、憐れむ気持ちからへびの姿を借りてエヴァを誘惑し、「善悪の知識の実」を食させます。
いわばサタンなりの人間に対する愛と情なのですね。
程度の低い愛情ですが・・・(^▽^;)
この「失楽園」にインスパイアされて誕生したという、我らがダニエル・クレイグ
しかし、この「善と悪」もしくは「正と邪」を判断する知識というのは、果たして本当に必要な知識なのでしょうか?
この「善悪の知識」を手に入れた人間は、自分の立場に立った「善悪」の判断は出来るようになりました。
神の詰問に、男は「女から」、女は「蛇から」、それぞれ騙されたと言い訳を始めています。
他人に罪を押し付けて、
「あいつのせいで・・・だから、私は悪くない」
と他の悪を見出し、己の正しさを主張しています。
しかも、このように男は共犯者なのに、
「あなたがわたしと共にいるようにして下さった女が、木から取って与えたので、食べました。」3・12
と、開きなおり、責任を女に転嫁したかと思えば、むしろ、そんな女を伴侶に定めた神が悪いのだというような、言い逃れを始めています。
以前、このブログで「悪人ばかりになったら平和になる」話を取り上げたことを覚えてらっしゃいますか?
http://familyties.seesaa.net/article/31570125.html#comment
アダムとエヴァは、ただ知識が皆無で知恵の無い存在であって、さも、サタンが知識と自由を与え、隷属からの解放者のように解釈する向きが多いのですが、わざわざ「善悪の」と断ってある通り、これは「我善他悪」という考え方(知識)を得る実だった訳です。
つまり、
「善いか悪いか」
「正しいか間違っているか」
の二元論で物事を考え始めると、絶対に自分が正しくて相手が間違っているように思えてきます。
なぜならば、この世に生きとし生きるものすべては、完璧でも完全でもないからです。
必ずどこかに落ち度があります。
この落ち度ですが、相手の落ち度は気になって気になって仕方がないのに、なぜか、みんな自分の落ち度には、そうならざるを得ない事情が、ドンドン思い浮かんで「自分は悪くないこうなっても仕方ない」となります。
更に、人の判断基準はそれぞれに違いますから、皆が「自分が正しい」と信じるようになり、「正しさ」と「正しさ」の戦いが始まるのです。
互いに「相手の落ち度や悪い点」と、「自分がいかに正しいか」しか見えなくなるからです。
私が、子供たちに「喧嘩両成敗
これは、過去の日本では常識的な考え方でした。
それが、義務さえ果たしていれば、権利を主張しないとは・・・なんてアホな御人好しなんだ的な考え方が外国から入ってきてからは・・・ねぇ・・・(^▽^;)
大切なのは、自分の立場で善悪の判断をしてしまわないことでしょう。
「私は、こんなに○×△という『善いこと』をしているのに、相手は△×○するなんて!どう考えても相手が悪い!」などと、善悪の判断をし始めると、常に相手を裁くようになってしまいます。
ですから、善悪二元論という「ものの見方」のお粗末さに、まず気づく必要があります。
「自分が清く正しいがゆえに、人の悪が許せない」というタイプの人がいますね。
正義感が強すぎて、悪を憎み、悪に対して怒っている人ですが、これって、すべての人に当てはまると思いません?
人が誰かを裁く時というのは、みんな同じくこういう心理状態にあります。
しかし、
心の底で人を裁いていると、自分が裁かれるような人生になってしまうんですね。
「善いか悪いか」「白か黒か」という二元論ではなく、白でも、クリーム色に近い白もあれば、限りなくグレイに近い白もあれば、限りなくグレイに近い黒もあり、赤も青も黄も緑もピンクもオレンジもあるという多様性を受け入れるだけの「ファジーさ(曖昧さ)」が大切なのではないでしょうか?

グリム童話
コメントありがとうございます(^▽^)
こちらのブログは、更新停止しておりましたので、長らく放置してしまい申し訳ありませんでした。
いただいたご質問に対する回答を、私は持っていないのですが、ひとつ確かなことは、永遠の命というのは残念ながら、有り得ないということですね。
もちろん、命が永遠に続いてくれれば、ありがたいのですが・・・^^;
もしよろしければ、新しいブログのほうにも遊びに来てくださいね^^↓
http://yootsuka-switch.seesaa.net/