江戸庶民の子供たちは、だいたい朝8時くらいから、お昼ご飯を挟んで14時くらいまで勉強をします。
子供たちが帰った後で、色々な事情があって読み書きを習う事が出来なかった大人の為に、指南所の門戸は開放されています。
面白いのは、ひとりひとり違う教科書が使われていたことで、
「その子に一番役に立つように」
という考えからでした。
机も案外向きがバラバラだったりと、かなり自由な雰囲気だったのではないでしょうか?
また、指南所の師匠には「倒書」という技術が必要とされていました。
これは、子供と向き合って上下さかさまの文字を、書き順もその通りに書く技術です。
これが出来ないといちいち子供の後ろに回りこんで書いてあげないといけなくなって、効率が悪くなりますし、「おんぶ師匠」と呼ばれて格下に見られましたから、先生の方も一所懸命に技術を磨きました。
指南所の先生は、浪人、坊主、神主、未亡人など教養もあって時間もある人たちで、三人に一人の割合で女師匠がいたと言われています。
ですから、大人の生徒の中には、
「どうせなら女師匠のところへ・・・」(すきあらばつまみ食いしてやろう)とよこしまな気持ちで、通う人もいて、そういう生徒を「狼弟子」と呼んでいました。そのまんまですね(^^;)
授業料は、あってないようなもので「出世払い」というのが普通でした。
もし払えない場合は、例えば「寺子屋」なら商売ものを持って来たりします。
大工であれば、師匠の家を直して上げたり、八百屋なら野菜を持ってきたりしていたようですし、師匠の方も師匠の方で情に厚く、家計の苦しい家が月謝を持ってきたりしても、師匠が頑として押し返したりすることが多かったようです。
師匠も子供を教えることに情熱を持っていましたし、子供もそれに応えようと自然に勉強に身が入り、真剣に学んでいました。
また、昌平坂学問所などの公の学問所であれば、授業料が払えない場合、学校にとどまって後輩の指導に当たっていたようです。
昌平坂学問所というのは、教師を育成する学校なので、今で言う教育大学にあたります。
推薦状があれば面接試験程度で入学できましたが、進級試験が難しく、途中でドンドン自主退学者が続出して結局一割近くしか残らなかったようですね。