2007年07月26日

映画「明日の記憶」と、命の使い方〜その1



先日、妻と一緒に渡辺謙主演の映画「明日の記憶」をテレビで見ました。

作品の評判を聞いていて、機会があったら観てみたいと思っていた作品だったので、期待しながら観たのですが、評判以上で、期待を上回る名作でした!


 
広告代理店に勤める働き盛りの49歳、渡辺謙さん演じるやり手部長を突然襲う、若年性アルツハイマー病。

記憶だけでなく、自信とアイデンティティを、段々日々刻々と失っていくという不安。

自分が自分でなくなっていくという恐怖。

認知症の恐怖と不安が、リアリティをもって描かれていました。



渡辺謙さんの演技は、神がかり的にすごかったです。

あまり説明的なシーンも、ナレーション的な台詞もなかったのですが、氏が、絶叫したり、泣きわめく姿で、認知症者の抱えている本物の苦痛や恐怖、不安が見事に表現されていました。

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また、先日亡くなった私の祖母も、認知症だったのですが、私の両親は、施設ではなく、共に暮らすことを選択していましたので、劇中で樋口可南子さん演じる妻の献身的な介護シーンを観ていると、図らずも両親と祖母の姿に重ね合わせて見てしまい、つい涙を流してしまいました。

本当に家族で介護をするというのは、生半可な覚悟では出来ないと思います。

その辺りのジレンマや辛さも、うまく映像化されていて、映画作品としても本当に優れた作品だと思います。


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この映画では若くして認知症にかかり記憶を失っていく男の苦悩や、悲劇というものが淡々と描かれ、そういう悲惨な運命を共に受け入れ、共に生きる妻との愛が描かれていますが、注目すべきテーマはそれだけではないと私は思います。

若くして認知症にかかったことは、それは悲劇でしょう。

劇中で渡辺謙さん演じる主人公は、大手広告代理店に勤め、社内ではビックプロジェクトを率いるリーダーを任せられ、クライアントからも厚い信頼を受けている、まぁ、成功者といえるでしょう。


しかし・・・仕事人間として娘や妻のことなど省みず、仕事にのみ奔走してきた彼は、若年性アルツハイマーにかかって初めて自分の人生を振り返り、自分自身のアイデンティティを見つめるきっかけを得ます。



妻から明かされる、愛する家族のエピソード。

たとえば、ひとり娘が第一希望の高校受験に失敗して泣きくれていた夜に、彼は接待で酔いつぶれ、居間で寝ていたとか、娘の病気の時も、節目の時も、あなたは大事な時、そばに居て欲しい時に、いつも私たちのそばに居てくれなかった!と責められます。

愛する家族のために仕事をしてきたはずなのに、仕事での成功と引き換えに、大切なものを失っていたことに気付くのです。(私も前職の時に同じような思いを、当時赤ちゃんだった息子「小太郎」を抱えた妻と娘「あきら」にさせていたため、身につまされながら観ていました)(汗



若年性アルツハイマー病にかかってしまった。

これは、非常に悲惨なことです。

しかし主人公は、病気になることで仕事に追われて猛進し続けてきた人生の中で、はじめて立ち止まり、自分の人生を見つめ直すことができました。

自分自身を見つめ直し、あらためて自分と家族を見つめることができたのです。

主人公は病気になってはじめて、妻や娘のことなどまったく省みず、仕事人間として生きてきた自分、家族に対する思いやりに欠けていた自分に、気づきました。



もし、主人公が病気にならなかったとしたら・・・



きっと、ただの仕事人間として一生を終えていたのではでないでしょうか。



そうです。



若年性アルツハイマー病になったことは悲劇でしたが、病気になったからこそ、自分の人生において、最も重要な「気付き」を得ました。

その「気付き」があって、「せめて娘の結婚式までは・・・」立派な父親として現役でいたい、その思いから、娘や周囲の人たち、社内でも病気が気付かれないように、必死に頑張るのです。


劇中で、主人公のひとり娘は、父親の愛情を感じることが出来ずに一時期荒れていたという台詞があります。


この病気を境に、主人公は愛する家族のために、そして一人娘のために、おそらく初めて必死に頑張れるようになったのではないでしょうか。

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一見主人公は、若年性アルツハイマー病になって、自我の確立された人生を失ったように見えます。

しかし、病気になることと引き換えに、かけがいのないものを手に入れています。

皮肉な成り行きが描かれていますが、主人公は不幸だったのでしょうか?



私には、そうは思えません。



きっと、主人公ははじめて自分らしく、生きることができたのではないでしょうか?

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後半、主人公は若い頃(結婚前に)妻と通った陶芸の釜場へと導かれるように向かいます。

そこで若い頃の自分と妻の生活とのフラッシュバックに遭遇します。

そして、偶然再会した師匠と、自作のカップを焼き上げる事に。

完成した作品を手にした時、主人公は、現在の妻の事すら忘却してしまっていますが、ラストシーンで満足そうな主人公と、妻の満ち足りた表情、そして師匠と完成させた湯呑の表面に書かれた、妻の名前に夕陽が当たります。



主人公は、不幸だったのでしょうか?



私はそうは思いません。




遺された自我を維持できる短い時間に、人生を燃やし尽くせたのではないでしょうか?



ただの仕事人間としてただ生きる人生よりも、期間は短くとも、自分らしく輝く事が出来た、自分の人生を取り戻す事ができた幸せな人生を生きたと言えないでしょうか?




posted by 大塚陽一 at 11:08 | Comment(0) | 独り言
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