2007年11月09日

病を得る1

(ちょっと体調が、あまり良くないので、短めで、しかも前後編二部構成になります)

病気というのは、なぜ存在するんでしょうか?

何のためにあるんでしょうか?

この世に不必要なものは存在せず、起こることはすべて必然だ、とも言われています。

では、人を苦しめる病苦にも、その存在意義というものがあるのでしょうか?

それを、最近よく考えています。



病ではないのですが、実は、先日も倒れまして、天敵である点滴のお世話になってしまいました。

しかも、大嫌いな(あくまでも嫌いなのです!誰が何と言おうと怖いわけではありません!)注射もされて、血を採られましたよ(TT)

風邪をひいた時もそうですけど、こういう時は、「最近、頑張りすぎだぞ。ちょっと身体休ませなよ」というSOSのメッセージなんだろうなぁ〜と感じるんですけど、でも、命に係わる病気や、それまでの人生を奪うような病気だった場合は、どうなのかな?って思います。




例えば、先日乳癌の手術が無事終わったアグネス・チャンさんは、早期発見だったので内部の腫瘍部分を取り除くだけで済んだようですが、女性にとっては多少であっても乳房が小さくなったり、無くなったり、子宮を摘出したりというのは、男には想像できないほどの喪失感があるのではないかと思います。

しかし、気丈にも、アグネス・チャンさんは、

私の胸は小さくなったかもしれないが、心はそうなっていない

この経験が、私を強くしてくれる

というコメントを出されていました。

すごいことだと思います。

自分が同じ立場だったら、同じように前向きに捉える事ができるかどうか・・・正直言って自信はありませんが、それでも、病気に限らず、自分に降りかかってきた事柄の意味を、どう受け止めるかによって、人生の意味や、幸不幸というものが決まっていくのだと、私は信じています。



以前、『映画「明日の記憶」と、命の使い方〜その1』と、『その2』でも、触れましたが、病気にかかる事によって自らの人生を振り返り、自らの手に人生の舵を取り戻す、そのきっかけとなるために、この病を得たんだと、そう思えれば、その人の残された人生は、実り多き人生になる。

そう信じています。




映画「明日の記憶」の主人公は事実、病を得ることによって短い時間ではありましたが、人生を自分の手に取り戻すことが出来ました。

しかし、受け止め方が逆であれば、「大きなプロジェクトを任されるような仕事をしていて、生活にも困らず、順風満帆な人生を送ってきて、しかも一人娘が結婚し、孫を授かった人生の絶頂であるこの時に、若年性アルツハイマーにかかって、仕事も自分の自我も失う事になる。こんな不幸が他にあるか!」となると思います。

受け取り方次第で、同じ出来事であっても、いくらでも皮肉なことになってしまうものだと思います。

これは病気に限らず、何事もそうだと思います。



「どうして、こんな人と結婚したんだろう?結婚前はこんな人とは思わなかった!」


「なんで、こんな上司の居る会社に入ったんだろう!」


「なんで、こんな親のところに生まれてきたんだろう!」


「どうしてこんなにツイテないんだ!」


「何で、自分だけ!」



普段私たちが自分の身に降りかかる色々なことを、どう受け止めるかで、自分の人生を幸せにも不幸にも変える事が出来るのではないでしょうか?

でも。

でも、ですよ。

良い方向に受け取ろうとしても、治療の適わない病気にかかったら・・・自分の命を確実に刻一刻と蝕んでいく病気にかかったら、そんな前向きに受け止めることなんか出来ないかも知れない。

今は、そういう病気にかかっていないから、いくらでも前向きな事が言えるけど、実際に自分が、不治の病にかかったとして、それでも、同じことが言えるのか!?

それは、わかりません。

でも、イザそうなったとしても、前向きに受け止めたいと思っています。

それが治る病であれ、不治の病であれ。





ということで、不治の病について・・・次回に続きます。

ごめんなさい。






posted by 大塚陽一 at 09:47 | Comment(0) | 独り言
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