それは、それは、相当な難産だったらしい。
「こりゃあ、双子かも知れませんなぁ」
医者が冗談を漏らすほど、大きな赤ん坊だったし、これまでも何度か、せっかく授かった命を、この世に結び付けることなく失ってきたものだから、
(何としても、この子だけは・・・)
母親の「雅子」も必死だったらしい。
そうして大塚陽一は、昭和46年3月16日の明け方、熊本県で生まれた。
父親の「忠勝」も、三十を越えて、初めてもうけた跡継ぎの男児だけに、
(たくましく、強く、大きく育ってくれ)
その思いを込め、太陽の陽に、一番の一で、陽一と名づけたと言っていたが・・・
母親「雅子」が一度、
「それがねぇ、あんたが生まれるまで、何人も流れたろ?あたしも今度ばかりは、と思って必死でね、色んな友達とか、色んな人に相談したりしてね、そりゃもう必死やったよ」
なんでも義母からは、
「あたしゃ、6人するするっと産んだばってんね」
陽一の父忠勝の兄弟からは、
「お義姉さんには、早く大塚本家の立派な跡取りば、産んでもらわんといかんけんね」
などと、常にプレッシャーをかけられていたのが余程辛かったらしく、
「みんなから勧められるままに、色んな宗教に連れて行かれたり、お守り買ったり、厄払いしてもらったりしたねぇ・・・」
丁度陽一を身篭った時、某学会の熱心な信者である友人某に、言われるまま、経典の様なものを開いたら、
『釈迦の誕生』というページが開いたものだから、友人の某は、興奮して、
「あらぁ〜!雅子さん!あなた素晴らしいわ〜。この子はきっと、お釈迦様の申し子よ。絶対無事に生まれるわ〜!」
ということで、その宗教の教義で、『釈迦の申し子』と認定(?)された子供に付ける名前リスト(?)の様なものを見せられ、
「その中で、陽一っていう名前が、一番よかったけんね〜」
と、名付けた理由の秘密を、こっそり教えてくれた事がある。
この母親が、なかなかの変わり者で、今では、育児の世界では当たり前となっている情操教育を、昭和40年代当時に心がけていたり、
昭和50年代に、成功哲学の世界的権威ポール・J・マイヤーのパーソナル・モチベーション・プランニング・システム(数百万相当のもの)を購入して勉強していたり、
数々の資格を、独学で取得し、特に「産業カウンセラー」の資格を取得してからは、各所でセミナーを開いたりしている女傑といってもいい存在だった。
もともと勉強好きだし、末っ子で、おしゃまなところもあるので、周りもよく慕っており、
「何かあったら大塚さんに!」
「大塚さんに相談すれば!」
と、よく電話や、直接出向いて相談に乗ったりしていて、周りから頼みに思われる性質だった。
こう書くと、何事もキチキチッとしているように思えるが、夫である、陽一の父「忠勝」いわく、
「なぁに、あれ(雅子)は、自分の興味の対象以外は、ボケ〜っと、抜けまくってしまって、あれの会社も、よく仕事任せられるな〜と感心する位、普段抜けとるからな〜。ま、そういう抜けた性格やから、祖母さん(忠勝の生母、陽一の祖母)と、うまくやって行けるんやろうけどな」
私と言う現象は・・・その5につづく解説
posted by 大塚陽一 at 00:08
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私という現象は・・・